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[22]名無しさん
>>21(続き)
ソ連女性兵士、満州侵攻、日本男性を強姦・輪姦

あの当時、ソ連女性と日本男性の体格を比べると、ソ連女性の方がはるかに大きかったらしい。
ポツダム宣言受諾後、日ソ不可侵条約を一方的に破り満州に侵攻してきた世界の極悪国家ソ連★
その時、ソ連軍の女性兵士によって、多くの日本男性(少年含む)が強姦、輪姦された。
女性兵士達は、油を塗った大きな手で男性の性器をしごき、勃起したら即馬乗りになって挿入し躯を押さえ付け、本人の意思を無視して無理やり強姦したということです。
恐怖で震える男性、やめてくれと哀願する日本男性を力ずくで押さえ込み、ソ連女性兵士達は相手が失神するまで、自分達が満足できるまで犯し続けた。

共産圏のリーダーであったソ連、男女平等と言うことで、多くの女性兵士が戦争に参加していた。
女性兵士、それは独ソ戦から大活躍をし、第二次大戦では100万人?が男並、又はそれ以上の活躍をした。
戦争、それは、勝者のやり放題、敗者は無抵抗で「強姦、輪姦、暴行、略奪、殺害」を受ける。
(サンフランシスコ平和条約などを拒否した極悪国家ソ連が悪の第一人者である。)
戦争、それは、国家同士の喧嘩。話して理解し合えなければぶつかり合いとなった。
現在の日本の平和は、抑止力に支えられた平和である事を認識しなければいけない。

ところで・・・
ソ連女性兵士に強引に犯されている時の日本男性の気持ちってどんなんでしょうか?
抵抗したり拒否したら、即殺されると言う状況であった事は間違いないと思います。
でも、大柄で力が強い女性兵士ですから、例え抵抗を許されたとしてもレイプされてしまったのかな?
女性兵士に強姦・輪姦されたあと、屈辱に耐えかねて自決した哀しい日本男性もいたと言う事です。
補足ですが、このソ連女性兵士による強姦・輪姦は、シベリアに抑留された多くの日本兵捕虜に対しても日常茶飯事的にヤラレタとの事です。憤慨ですが、ソ連女性兵士は、日本兵を犯しまくったと言う表現が適切かと思います。

今まで、戦争による強姦の被害者は女性だけかと思っていましたが、今回ネット検索で新事実を沢山知り、酷く衝撃を受けてしまいました。
強い立場のソ連女性兵士が、弱い立場の日本男性を、強姦・輪姦のやり放題していたんですね。
https://blogs.yahoo.co.jp/yamatotakeru542/archive/2015/12/06


麻酔なしの中絶手術

特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、今年5月14日に行われた
「水子供養祭」(福岡県筑紫野市で)

 ◆恨みと怒りの声、手術室に響く

引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。
麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。
医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。

「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。
看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。
ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。
「ちくしょう」??。
手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。

おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。
「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。

幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。
陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。
食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。
白い肌に赤い髪、長い指??。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。
医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。

食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。
「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。
分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。
村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。
女児の息が止まった。

死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。
手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。

手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。
会話もなく、横になっているだけ。
大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。

女性たちは1週間ほどで退院していった。
村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。
中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400?500人にのぼると見られる。

1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部共同で使用していた。
設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。

島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。
一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。

二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。
今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。
「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」


(更に続く)

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