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[147]管理人◆UBRCVB4AUw
1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、英国オックスフォード大学マートン・カレッジ(英語版)に留学して、テムズ川の水運史について研究。1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程を修了した(文学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。
昭和時代の末より、徳仁親王の伴侶たる親王妃候補について様々な憶測が報道されるようになり、1986年(昭和61年)10月18日、来日中のスペイン王女エレナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシアの歓迎パーティーに親臨した際、外務省に勤務する女性国家公務員であった小和田雅子と知り合う。

1989年(昭和64年)1月7日、祖父昭和天皇の崩御を受け、父の皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が第1位となり、徳仁親王は皇太子(皇嗣たる皇子/皇男子、法定推定相続人)となった。また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。

父帝の即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を父帝から親授された。

1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。

1986年(昭和61年)10月18日、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の娘エレナ王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。1987年(昭和62年)4月25日には、高円宮憲仁親王同妃久子が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った。

こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・江頭豊は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから水俣病患者の補償部門として新設されたチッソに派遣されその後、社長に就任したことやメディアスクラムの被害、雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている。

また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた、元外務事務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も『温かくお迎えする』とおっしゃって下さっている」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。

>>146 続く


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